広島(1945年8月6日)と長崎(同9日)に原爆が投下されて80年。原水爆禁止2025年世界大会が3~6日まで広島市で、7~9日まで長崎市で開かれました。世界で紛争が続き、再び核使用の危険に直面しています。国内では「核武装が最も安上がり」と公言する政治家の登場など、逆流も生じています。一方で、核兵器禁止条約の署名国は97に広がり、昨年の日本原水爆被害者団体協議会(被団協)のノーベル平和賞受賞は、勇気と希望を与えました。被爆者の平均年齢は86・13歳になり、被爆体験と思いの継承が課題です。広島・長崎の世界大会に集った民主商工会(民商)会員らは、被爆者が語る実相と決して諦めない核兵器廃絶運動の経験に耳を傾け、各国からの参加者らと交流し、「核兵器のない平和で公正な世界」へと行動する決意を固め合いました。
「核廃絶を諦めない」
大阪・堺南民商 婦人部 伊礼綾子さん=電気工事
大阪・守口民商 婦人部 原陽子さん=建築美装

1945年8月6日、午前8時15分。広島に投下された1発の原子爆弾が、一瞬で数万人の命を奪いました。あの日から80年。ヒロシマで、業者婦人が見て、感じたことは―。5、6日の2日間、原水禁世界大会に参加した大商連婦人部協議会(大婦協)の2人の後を追いました。
「核兵器廃絶に向けて”諦めへんぞ!”という気持ちを強く持てた」―。6日、世界大会のヒロシマデー集会に登壇した高校生らを見てこう話すのは、大阪・守口民商婦人部の原陽子さん=建築美装。同じく堺南民商婦人部(全商連婦人部協議会副会長)の伊礼綾子さん=電気工事=も、熱い拍手を壇上に送りました。
原さんは2年前、長崎での世界大会に初参加。核兵器廃絶をめざす各国の草の根運動に心を打たれました。「子どもの頃、従軍経験のある父親が『本当は戦争に行きたくなかった』と話してくれて、”被害者”を作るだけでなく、”加害者”を作ってしまう戦争は反対や、と思ってました」
伊礼さんは30年ぶりの参加。当時、一緒に参加した小学3年生の息子が「広島平和記念資料館を見た後、灯籠流しを見て『奇麗って言うたら、あかん気がする』とつぶやいたんです。何か感じるところがあったんでしょうね」。平和記念公園を歩き、その記憶が呼び起こされました。
広がりに希望が

5日夕の関連企画「核兵器なくそう女性のつどい」では、要員として奮闘する広島北民商の婦人部員らとエール交換。つどいでは、女学校2年の時に入市被爆した河野キヨ美さんが「当時は、4月に入学したばかりの中学生たちが勉強もできないまま、火災を防ぐために市内の建物を壊していました。作業をしていた子どもら約6300人が原爆で亡くなりました」と語りました。
原さんは「どの国でも、母親が子どもを守りたいという気持ちは同じ。母親でなくても、未来の世代を案ずる女性たちの思いが戦争反対の運動を今につなげてきたんだと感じました」。
6日、ヒロシマデー集会の後、2人は原爆ドームや、自身の白血病の回復を願って折り鶴を折り続けて亡くなった佐々木禎子さん(享年12歳)をモチーフにした原爆の子の像、広島平和記念資料館を訪れました。5歳の少年が父親の背中に刺さったガラス片を引き抜くという証言パネルの前に立ち止まった伊礼さん。「痛みに耐えている父親もつらいが、小さな手でペンチを持って一生懸命に破片を抜こうとする子どもが不びんでならない」と目を潤ませました。「展示を見ている人たちの多彩な言語に、運動の広がりと核廃絶への希望を感じますね」
できることから
二人はヒロシマでの2日間を、こう振り返ります。
伊礼さんは「武器を持たない生活者への原爆投下は、国際法違反の重大な罪であり、言い訳の余地はない。ガザで起きていることも同じ。人が人を焼き尽くす行為を繰り返させたら、あかん」。そして「30年前に参加した世界大会が、私が婦人部活動に参加するきっかけになったように、平和学習で婦人部の役員も掘り起こし、『平和でこそ商売繁盛』を未来につなげたい」と続けました。
原さんは「被爆者の体験や思いを等身大の人型に描く『ボディーマッピング』に取り組む高校生を知り、励まされました。被爆証言を、以前に交流のあった人たちとの『旧友ネットワーク』で話すなど”小さくても、できること”から始めたい」と前を向きます。「戦争は人間の手で止められる。諦めずに、他団体とも連帯して、核兵器のない世界をめざしたい」
被爆の実相継承へ
長崎のつどい 田中熙巳さんが証言

「被爆体験の継承と未来―被爆80年長崎のつどい」が7日、長崎市民会館・体育館で開かれました。長崎市内で、13歳の時に被爆した被団協代表委員の田中熙巳さんが時折、声を詰まらせながら証言。「被爆者は『核兵器は造ってはいけない』と叫び続けてきた」と述べ、核兵器のない世界の実現を訴えました。
自宅で被爆し、奇跡的に助かった田中さん。伯母危篤の知らせを受け、8月12日に爆心地方面に向かいました。
「子どもが爆風に飛ばされ、焼かれ、壁に張り付いている姿、川に何十人もの遺体が浮かんでいる様子。余りの惨状に心が閉じてしまった」「亡くなった伯母の骨を拾った時、『どうして、こんなことになったんだろう』という思いが込み上げ、涙が止まらなかった」「9月に学校が再開され、爆心地付近に自宅のあった同級生が『私は一人です。家族はみんな死んでしまった』と語る声が、今も忘れられない」と、声を詰まらせました。
田中さんは「世界に1万2千発も存在する核兵器は絶対に、早く無くさなければなりません」と力を込めました。「生き残った被爆者は『核兵器は絶対に使ってはいけない兵器だ』と叫び続けてきました。被爆者たちの運動が核兵器を使わせず、被団協のノーベル平和賞受賞につながりました」と語りました。
会場の参加者に「核兵器禁止条約に、日本政府は署名も、批准もしていない。核兵器の非人道性を世界中に広げて、核兵器を無くす運動に結集させましょう」と呼び掛けました。
学んだことを地元で
核禁条約参加を
福岡県連副会 長中間遠賀民商会長 北川敏幸さん=解体工事

『民商・全商連の70年』を読んで参加しました。ビキニ事件の後、魚が売れず困った民商会員らの運動が原水禁運動に大きな役割を果たしたと学んだ。日本が核兵器禁止条約に参加するよう、地元で頑張りたい。
娘と平和考える
長野・上伊那民商 岡田建二朗さん=林業

世界大会には父に連れられ、ほぼ毎年参加していました。「いつかは自分の子どもと…」と、小学6年の双子の娘を初めて連れて来ました。平和を考えるきっかけになれば、と思います。
岡田杜和さん
似島(広島市)で兵隊が見張っていた場所を見て、食事は大丈夫だったかなと思いました。日本は戦争をしないと決めたから今があると感じて、うれしいです。
岡田相和さん
兵隊さんは一日中監視して、家族と別れなければならないし、寂しかったと思う。休み明けに、広島で知ったことを友達に、自慢しながら話したい。