【東日本大震災10年】岩手県宮古市田老地区 復興事業は終わったが… まちの魅力取り戻せるか|全国商工新聞

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 東日本大震災から10年-。来年度から復興予算の大幅削減が予定され「復興計画事業は終わった」といわれます。10年にわたり進められてきた大規模工事も防潮堤の建設など一部を残し終了しました。大昔から再三にわたり津波の被害に悩まされてきた岩手県宮古市の田老地区を訪ね、復興の現状をリポートします。

沿岸地域の現状と課題 岩手・田老地区現地リポート

 三陸海岸沿いのまちを走ると、高い防潮堤、かさ上げされた土地、住宅の高台移転-という、どのまちも同じような光景が広がります。
 宮古の市街地を出て、国道45号線に入り20分ほど北上すると、田老地区に入ります。真っ先に目を引くのが、大規模なソーラー発電設備と野球場。海沿いを通る国道から海は望めません。
 明治三陸津波(1896年)と昭和三陸津波(1933年)により壊滅的な被害を受けてきた田老地区。明治には1859人、昭和には911人の犠牲者を出した教訓を踏まえ、「万里の長城」と呼ばれるX字型二重防潮堤を整備してきました。総延長2433メートル、高さ10メートル。東日本大震災では、それを乗り越える16メートルの津波に見舞われ121・2ヘクタールが浸水しましたが、犠牲者は181人にとどまりました。

田老地区の復興まちづくり計画図=三王眺望公園に展示

防潮堤に囲まれ港町の風情なく

特産の「真崎わかめ」を選別する漁師

 田老地区の「復興まちづくり計画」の柱は「海が見える高台のまち」「遠くから買いに来たいと思う土産のあるまち」「活気ある商店街の復活」の三つです。
 政府の「創造的復興」の方針を受け、田老地区は新たに高さ14・7メートルの防潮堤を建設するとともに浸水地域をかさ上げし、居住地域を「三王団地」と呼ばれる高台に移転させる計画を作ります。
 政府の東日本大震災復興構想会議(座長:五百旗頭真・前防衛大学校長)は、「震災からの単なる復旧ではなく、未来に向けた創造的復興をめざしていくことが重要」と提言(11年4月11日)し、津波の到達しない高台に宅地開発して移住する「高台移転」の方法と、津波のエネルギーを減衰させる防潮堤の整備と、住宅地のかさ上げを打ち出します。地元の費用負担はなしとしたため、基本的にどの被災自治体もこれに基づく復興計画作りに動きました。
 防潮堤に囲まれたまちに港町の風情はありません。防潮堤(第1線提)をくぐると、ようやく三陸リアスの景観や漁船の姿が目に入ります。
 道の駅を中心とした商業エリアに商店は10軒ほど。かつて沿道に軒を並べていた商店の姿はなく、空き地と広い駐車スペースが広がります。生鮮食品を扱う店は2軒。うち1軒は「道の駅」の敷地内です。
 造成された三王団地には瀟洒な住宅が並びます。「せめて海が見える高台へ」と住民は高台を選びましたが、三王団地から海を望むことはできません。
 空き地もちらほらと点在しますが、約300軒が移住しています。商業エリアから高台の三王団地までの距離は約1キロメートル、徒歩で約15分。雑貨店など3軒があるだけで他の商店はありません。
 「日用品の購入は、商業エリアに行くか、生活協同組合などが運行する移動販売車に頼るか。最近、三陸自動車道が建設されたため市街地まで車で10分程度となったので、宮古に行く住民が増えている」と住民は話します。

宅地造成が遅れ人口流出が続く

地域づくりと民商の組織建設について語る宮古民商の崎尾誠会長

 「安心・安全なまち」とともにめざした「観光のまち」。建設が進められている三陸自動車道からは、まちの様子が分かりません。近くの港から出ていた観光遊覧船もいまはありません。高い防潮堤に囲まれたまちにどれだけ魅力があるのか、震災遺構「たろう観光ホテル」をめざし、インターチェンジを降りる観光客がどれほどいるのか…心もとなさは拭えません。
 高台の宅地造成に時間がかかる間に人口の流出が続きました。
 田老地区は震災前に4400人いた人口が3千人を切り、人口の流出が続いています。最盛期に780人近くいた漁協組合員も地区外に移転などが相次ぎ300人に激減、水産加工も不漁で苦戦続きです。
 田老地区で自動車整備工場を営む宮古民主商工会(民商)の崎尾誠会長は「震災直後は、さらに高い防潮堤が必要だと思ったが、できたものを見たら…。新たな防潮堤は過去2番目の高さに合わせて造られているが、この高さでも、いつかまた来る津波を防ぎきれるか分からない」と複雑な思いを巡らせます。
 「高台住宅地の整備に時間がかかってしまったので他の地域に行った人も多い。結局、高い防潮堤で守ろうとしたまちも守れなかった。私は、近場への移転も提案しましたが、国が示す大きな流れにかき消された」と振り返ります。
 「三王団地は10年もすれば空き家だらけになるのではないか。最近は特産のサケやサンマの漁獲量が減っているし、三陸自動車道の工事が終われば、建設業者もいなくなる」
 かつて、3軒あった自動車整備工場も崎尾さんの1軒が残るだけ。崎尾さんが生まれた田代地区も「昔は120戸あり同級生も38人いたけれど、今は全校で6人になり、宮古市立山口小学校に統合された。どこのうちにも子どもがいてにぎやかだったが、今後どうなるのか」と地域の行く末を危惧します。

地域の再構築へ挑戦はこれから

 「津波は必ずまた来る」-。被災地域の住民の共通した認識ですが、災害に強いとする、「創造的復興」の下で、ハードに偏重し「人間の復興」が後景に追いやられたことは否めません。住民・業者を主体にする地域循環型の持続可能な経済とコミュニティーをどう再構築するのか、まちが掲げた三つの目標の見直しと新たな挑戦はまさにこれからです。
 「震災復興特需が落ち着き、苦境に立たされていた業者を、新型コロナの持続化給付金が一時救ったことは間違いない。民商も多くの業者の相談に乗り、会員も増えたので、新しい事務局員を2人迎えて運動の継承を図っているところ。業者の営業と生活を守る砦を守る責任を果たしていきたい」と崎尾さんは表情を引き締めます。


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