東日本大震災13年 立ち上がる業者|全国商工新聞

全国商工新聞

商売あれば頑張れる 民商会員復興へ尽力

 2011年3月11日に発生し、甚大な被害をもたらした東日本大震災から13年。被災した中小業者は、被害に負けず立ち上がり、商売を再開し、地域の復興に力を尽くしてきました。1月1日の能登半島地震の被災者に自らの姿を重ね、「商売あってこそ、頑張れる」と語る、岩手、宮城、福島の被災3県の民主商工会(民商)会員に思いを聞きました。

岩手 譲り受けた船で希望が 宮古民商伊藤邦男さん=釣り船「すなどり丸」
「釣り船提供の申し出で希望が持てた」と話す伊藤さん

 「復興と言われても、景気は良くない。温暖化の影響か、漁に出ても魚は取れないようだし、船の油代や餌代も、ばかにならない」―。そう語るのは、岩手県山田町で釣り船「すなどり丸」を営む宮古民商の伊藤邦男さん。年々厳しくなる漁師町の様子に「今後を担わなくてはいけない若い人が心配だ」と、つぶやくように言いました。
 中学卒業後、鉄工所や造船所などで自分に合う仕事を探しましたが、22歳の時山田町に戻り、父と同じ漁師に。「イカやサケがよく釣れて面白かった。漁協の融資で船を大きくしたが、2010年に近隣の漁協が合併。一括返済を求められ、民商に相談して、入会したんだ」と振り返ります。
 民商の力を借りて解決した翌年、東日本大震災が発生。津波で自宅と船を流され、数キロ離れた高台の避難所での生活が続きました。「毎日が不安で眠れず、酒に逃げるしかなかった」
 そんな絶望から救ってくれたのは、全国の民商の仲間でした。和歌山・海南民商の岡義明副会長(当時)から「すなどり丸」を譲り受けることになり、11年10月、大阪・西淀川民商の高瀬敏明会長(当時)が10トントラックで陸路1200キロを走って届けてくれました。
 4年ほどかけ、釣り船に改造。アイナメやカレイ、スルメイカ、ソイ類など三陸らしい四季の多彩な釣りを、伊藤さんの丁寧なアドバイス付きで1人約5千円から楽しめると好評です。
 一方で、漁港内を見渡し、「あっちの船も、こっちの船も『赤字になるから』と港に停泊したままだ。魚が取れなければ、水産加工業も元気が出ない」と、街の衰退を危惧します。
 能登の被災者にも心を寄せ、「まずは最低限の衣食住が整わないと。被災者が体調を崩さぬよう、仮設住宅の早期整備など行政の支援が絶対に必要」と強調します。「コロナ禍など、被災から13年もたてば、新たな課題も出てくる。東日本大震災を終わったものとしないことが、次の災害の備えになるのでは」

宮城 「のれん」に背中押され名取亘理民商太田政志さん=「浜寿」
今が旬の「ほっき飯」
地域の仲間がデザインしてくれた新店舗で商売を再開した太田さん

 宮城県亘理町では、震災で300人以上が犠牲になり、海に面した荒浜地区は壊滅状態になりました。同す町で創業52年の「浜寿し」を営む太田政志さんも先代の父親から継いだ店舗を流失。1年後に新店舗で再スタートを切りました。「震災後、不安になることもあったが、たくさんの人に支えられ、ここまでやってこられた」と話します。
 地元の高校を卒業した後、東京・築地で修業。23歳で帰郷し、父親の下で腕を磨きました。県漁業協同組合亘理支所の魚市場で仕入れた新鮮なネタは、地元だけでなく県外の観光客からも人気です。「昔からのお客さんに、変わらない味だね、と言ってもらえると、うれしいですよ」と笑顔を見せます。
 地震の時は休憩中で、「チリ地震(1960年)の時も津波は来なかった」と言う父を急がせて家族を避難させ、太田さんは消防団の活動へ。港に向かうと、海底が見えるまで潮が引いていました。町役場の支所に飛び込むと同時に津波に襲われ、1階は浸水し、孤立。2日たっても水が引かず、大きな「いけす」に乗って陸地に戻りました。
 1週間後、荒浜地区の魚市場の正面にあった店を見に行くと、辺り一面、跡形も無くなっていました。途方に暮れる中、目に入ったのは、木に引っかかった「浜寿し」の、のれんでした。「店をやれって言われているのかな」。家族からも背中を押され、金融機関から借り入れをして、再開することを決意。店舗があった場所が災害危険区域に指定されたこともあり、2キロほど陸側に入った早川地区に店を構えました。地域の仲間も、新店舗のデザインをしてくれたり、ネットで呼び掛けて食器を集めてくれたりと、手助けしてくれました。国と県の「グループ補助金」にも応募し、補助率75%の補助金を力に事業を継続してきました。「本当にありがたかった」と話す一方、補助金の「処分制限期間」(木造店舗で22年など)に施設・設備を廃棄すると、補助金の返還が求められることがあると最近になって知らされ、「高齢で商売を続けられないが、返還金を求められるのなら廃業もできないという仲間もいる」と困惑しています。
 沿岸部にはスポーツ施設や温泉などが新設され、にぎわいを見せますが、町内の小中学校は統合の話が進むなど、人口減は深刻です。太田さんは「人手不足や物価高騰、そして昨年10月から始まった消費税インボイス制度で廃業を決めたという話も聞く。商売を頑張って続けようという足かせになっている」と言います。「震災から13年、復興の地域差は広がっているように感じる。被災した人も、しなかった人も、住んでいる地域を再生しようと、思いを合わせることが大切では」と力を込めました。

福島 孫が継ぐのを楽しみに 相双民商 小澤さだ子さん=美容室「ビューティサロンaya」
小澤さん(右)と、めいの櫻井美奈さん
店内の交流スペース

 「孫が継いでくれるまで、頑張りたい」。こう笑顔で話すのは、福島・相双民商の小澤さだ子さん。南相馬市小高区で美容室「ビューティサロンaya」を営みます。
 小澤さんが美容師になったのは1968年のこと。中学卒業後、美容学校に進学し、旧小高町内の美容室に40年近く勤め、2005年に独立開業しました。
 「子育ても終えて、ようやく夢を実現できた。1千万円ほど借り入れることになって、とにかく一生懸命働いた」と言います。11年3月で返済が終了し、「さあ、これから」という時に、東日本大震災と福島第1原発事故が発生。避難を余儀なくされました。
 避難先の山形県内では、アルバイト先のサクランボ園で脚立から落下し、右鎖骨を骨折。2カ月の入院生活を送ったことも。「もう仕事はできないかも…と諦めかけました」。被災から約1年後の12年2月、もともと美容室のあった小高区の隣・原町区の仮設住宅への入居が決まり、福島に戻りました。「右手を動かすリハビリを頑張っていたら、仮設に住む人たちから『髪を切ってほしい』と頼まれて」営業を再開。仮設住宅の1室に、夫・泰夫さんが入手してくれた大型の鏡を据え、その前にいすを置いて、はさみを握りました。
 「仮設で暮らしているうちに、コミュニティーが生まれて、たくさん交流できたことがうれしかった」と話す小澤さん。15年7月に小高区の避難指示が解除されたのを機に、3年半の仮設暮らしに別れを告げ、9月に自宅に帰還しました。商売も本格的に再開。店内に交流スペースを設け、お客さん同士が一緒にお茶を飲んだりできるようにしました。
 「戻った時は、周りに何にも無くて、さみしかったけど、徐々に人も戻って、前の暮らしを取り戻してきたと思う。避難先で仲良くなったお客さんが、今でも来てくれるんです」。震災から13年たち、高齢になったお客は、共に働く、めいの櫻井美奈さんが送迎しています。
 「原発事故がなければ、もっと早く営業再開もできたかもしれないけれど、地域のみんなで助け合って、何とか頑張ってきた。仕事があったからこそ、やってこれたと思います。今、中学3年生の孫娘が『おばあちゃんのお店を一緒にやりたい』と言ってくれている。それを励みに、元気で頑張りたい」

購読お申込みはこちらから購読お申込みはこちらから