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輪転機を封印し、社内に常駐している警察官(左)。51年5月の異常な事態(日本機関紙印刷所50年史から) |
全国商工新聞を印刷しているのが「株式会社きかんし」。全商連が財政的に困難な時代も含め創刊間もないころから、商工新聞を一貫して印刷してきました。
「きかんし」は1949(昭和24)年、東京・港区西新橋に株式会社日本機関紙印刷所として創立。戦後、民主主義を求める国民各層の運動の広がりのなかで、「自前の印刷手段」を持とうという気運が高まり、労働組合や民主団体が全国の労働者に「3円カンパ」を呼びかけ設立しました。
当時、日立労働組合青年部で活動していた菱健蔵さん(現・全商連名誉会長)も資金集めに奔走したと語っています。
しかし50年6月、朝鮮戦争が勃発し、言論・出版への弾圧が激しさを増しました。機関紙印刷所も「労働新聞を印刷した」との理由で51年、輪転機などが封印され、社内に警官が常駐するという異常な事態を経験しました。
こうした中で52年に発刊された商工新聞は、重税にあえぐ中小業者はもちろん、労働者など全民主勢力にとっても頼もしい味方として熱い期待を持って歓迎されました。
印刷所は51年と52年に数回の弾圧を受けるなど険しい道のりを経ますが、労使が団結を強めるとともに、技術革新は常に業界のトップ水準を維持し、商工新聞の発行を支えてきました。
当時を知る「きかんし」の大石一之元代表取締役社長は「商工新聞の発展とともに印刷所の発展があった」と読者が5万から10万、20万、30万と増えていったグラフを見ながら話します。
88年には、商工新聞編集局と印刷所を結ぶデータ通信を開通するなど、正確で迅速な編集作業を支えてきました。
全商連が財政的に困難な時期は印刷代の滞納などもありましたが、印刷は続けてくれました。
大石さんは「70年代中ごろだったと思いますが、大雪のため、貨物列車が2、3日動かなくて商工新聞が民商に届かない事態に。全商連事務局と現場まで飛んで行って対処したことなどいろいろ思い出されます」と語っています。
激しい弾圧を受けながらも機関紙の発行・印刷を守り続けた歴史は、今日の発展につながっています。 |
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