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業者運動発展の拠点となった東京都千代田区富士見町の全商連事務所(53年ごろ) |
政府・税務当局の組織破壊の攻撃をはね返して、倍加目標を掲げた民商・全商連は、1966(昭和41)年末に商工新聞読者10万人、会員8万人を超える組織に前進。さらに50万人の商工新聞読者、30万人の会員をめざしていきます。
そうした中、「会員がみんなで負担して全会員の会館を造ろう」という声が高まり、全商連会館の建設が具体化されました。
全国で1会員500円の拠出金運動が始まり、68年5月、今日の全商連会館(東京・目白)が完成しました。
全商連会館の建設は、民商・全商連の団結と連帯の強さを内外に示すことになりました。まさに「中小業者運動のセンター」の確立でもありました。
67年、京都で開かれた第22回全商連総会で会館建設と拠出金について承認され、募金運動が始まりました。
拠出金運動は全国に広がり、当時の商工新聞は毎号、会館拠出金目標を達成した民商を紹介しています。
全商連会館が建設される前は、52年5月から東京都千代田区のJR飯田橋駅近くに4畳半2間を借り、事務所にしていました。
当時の事務所にまつわるエピソードを全商連元事務局長の故・進藤甚四郎さんは「ある会員が大会参加のため上京。本部の事務所を見たいと地図を頼りに歩いたが見当たらない。『商工新聞社』をご存じないか、道行く人に聞くと、『あのビルかも』というので、近づいてみたら、病院だったり、大学だったり。いいかげん腹が立って、駅に引き返そうとした時、目の前にボロ家があり、その欄間のところに小さな横書きで『全商連・全国商工新聞社』の表札がかかっていたのです。『あった』という喜びと同時に、腹が立ってきた彼は、事務所に入ってくるなり『なんとだらしないんだ。全商連ともあろうものが、ビルじゃないのか。この事務所はおれの所より小さい』と大変な剣幕で頭から湯気を立てんばかりの怒りようでした。後に久しぶりに会って2人で腹の皮がよじれんばかりに笑い合いました」(民商・全商連のあゆみ)と述べています。
全商連会館に移るまで16年間は、間借りの事務所でしたが、「業者運動発展の拠点」として大きな役割を発揮しました。 |
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