全商連トップページ
中小施策 税金 国保・年金 金融 経営 業種 地域 平和・民主 教育・文化 県連・民商 検索
 全商連とは活動方針・決議署名宣伝資料調査婦人部青年部共済会商工研究所発行案内入会申込リンク
  トップページ > 民商・全商連の60年 > 全国商工新聞 第2965号 3月7日付

民商・全商連の60年
 

第7回 税務行政の民主化へ裁判闘争

Photo
荒川・広田事件の第1回公判後、たたかいの打ち合わせをする民商会員ら(1967年7月25日)

 1963(昭和38)年5月、当時の木村秀弘国税庁長官の一声で民商の組織破壊を狙った弾圧が始まりました。刑事事件を狙ったデッチあげもあり、民商・全商連は多くの裁判闘争をたたかい抜きました。東京・荒川民商会員だった広田権次郎さん(故人)=プレス=がたたかった裁判(73年判決)は、民主的な税務行政確立に向けた一歩を踏み出す画期的な判例となり、後に納税者との接し方などを定めた「税務運営方針」(注)策定に結実しました。

 66(昭和41)年9月、広田さんの工場に2人の荒川税務署員が税務調査に。広田さんと長男は「申告のどこに疑問があるのか。理由を示せ」と調査理由の開示を求めました。署員はそれを拒否し、しばらく押し問答に。署員の1人は帰り際に、長男所持の大学ノートが手に当たったと主張。否定する長男を無視して帰署した署員は、上司の指示で「示指(人差し指)全治3日間の打撲傷」の診断書を嘱託医に書かせ、警察に提出しました。

 数日後の早朝、約90人の警察官が広田さんの工場に押し寄せ、広田さんと長男を逮捕。この日は広田さんの60歳の誕生日でした。
 民商顧問だった鶴見祐策弁護士の尽力で、広田さんと長男は3日後に釈放されました。「仮にノートが触れていたとして、それだけで打撲という主張は無理があり、検察官も公務執行妨害の立件は難しいと判断したのだろう」と鶴見弁護士。
 しかし、しばらくして起訴状が届きました。「質問不答弁」「検査拒否」で所得税法241条8号(1年以下の懲役または20万円以下の罰金)に該当するという内容でした。
 62年の国税通則法制定時、民商の奮闘もあって国民的な反対運動が起こり、大蔵省(当時)は基本的人権に関わる部分を削除せざるを得ない状況に。民商の組織拡大に危機感を抱いた木村国税庁長官が「3年以内に民商をつぶす」と各国税局長に通達を出していたことが背景にありました。

 東京地裁の審理が始まると、鶴見弁護士をはじめとする大弁護団を結成。『どんと来い税務署』を執筆した吉田敏幸税理士(故人)や民商役員らによる4人の特別弁護人も選任されました。法廷は毎回、民商会員らで埋め尽くされ、当時の河野貞三郎全商連会長と進藤甚四郎事務局長も証言台に立ちました。
 69年6月25日、戸田弘裁判長は無罪判決を下しました。質問不答弁や検査拒否で処罰するには合理的な必要性が認められなければならないとしました。
 しかし、検察は控訴。東京高裁(関谷六郎裁判長)は70年10月29日、一転して被告有罪、罰金3万円を言い渡しました。
 たたかいの舞台は最高裁第3小法廷(天野武一裁判長)に移りますが、73年7月10日に被告人の上告を棄却する決定が下されました。しかし、その理由に異例の「余論」を付記。後に「広田決定」と言われる判例です。その柱は、「(1)調査は客観的に必要性がある場合のみ、(2)納税者の私的利益との衡量において社会通念上相当な限度にとどまり、(3)税務署の選択は合理的であること」―。現在の「税務運営方針」(76年発表)に反映されています。

Photo
税金闘争の歴史を振り返りながら、「今こそ国税通則法改悪を阻止の運動を」と呼びかける鶴見弁護士

 各地の民商では、この決定を活用し、強権的な税務調査に反撃。組織も拡大して弾圧をはね返しました。
 鶴見弁護士は言います。「その後、ある法律雑誌の座談会で、東京国税局の査察部長が『広田決定のような厳格な解では自由に調査ができない』とぼやいていた。運営方針どおりの調査は皆無なのが現状だろう。今こそ国税通則法改悪を阻止して、納税者本位の納税者権利憲章を制定させなければならない」



(注)税務運営方針「調査方法等の改善」(抜粋)
 税務調査は、その公益的必要性と納税者の私的利益の保護との衡量において社会通念上相当と認められる範囲内で、納税者の理解と協力を得て行うものであること……事前通知の励行に努め、また、現況調査は必要最小限にとどめ、反面調査は客観的にみてやむを得ないと認められる場合に限って行うこととする。


歴史に学び未来へ=民商・全商連の60年

  ページの先頭