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  トップページ > 民商・全商連の60年 > 全国商工新聞 第2958号 1月17日付

民商・全商連の60年
 

第4回・無担保無保証人融資制度の実現


 「(お金を)借りられない人々にこそ、この制度が必要だ」―。京都・蜷川民主府政の代名詞の一つともなっている「無担保無保証人融資制度」。それは民主府政を軸に、中小業者、金融機関が知恵と力を合わせた共同によってつくりあげられたものでした。

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京商連顧問の若宮精二さん

 「この制度を理解するには、蜷川民主府政を理解しないと…」。京都府商工団体連合会(京商連)会長も務めた若宮精二さん=京商連顧問=は語ります。
 初代中小企業庁長官を務めた蜷川虎三氏が京都府知事に当選したのは1950年4月。朝鮮戦争勃発2カ月前のことでした。「反共は戦争前夜の声である」。若宮さんは今も蜷川知事の演説を覚えています。
 当選した知事が最も重視したのが「府民の暮らし」。「命を産み育て、人生を豊かに高めていく。そういう日々の営みである」という意味を込めていたといいます。
 中小業者を府民の暮らしの土台と位置づけた蜷川府政。画期となったのが66年(昭和41年)4月に創設された無担保無保証人融資=「小企業特別融資制度」(略称・マル小、対象は20人以下の中小企業)でした。
 その直前に吹き荒れた「昭和40年不況」により、全国各地で中小企業の倒産・自殺が相次ぎました。それを尻目に政府は倒産の危機に直面した山一證券、大井証券救済のため、日銀を使って、無担保・無利子・無期限で両社に335億円の融資を実行します。これが中小業者の怒りに火をつけました。
 「山一なみの融資を中小業者に」。全国各地の民商が無担保無保証人融資を求め「金融闘争」を展開。京都でも4000人規模の決起集会が開かれました。「こんなけしからん話はなかった。だから保守も含めた業者の大同団結と運動につながっていったんです」と若宮さんは振り返ります。
 中小業者と国民の運動に押され政府は65年3月、中小企業信用保険法を改正し、地方自治体による無担保無保証人融資制度への道を開きました。京都の無担保無保証人融資制度である「マル小」はこの改正保険法を活用し、実現したものでした。
 京都府に先立ち、東京都が同法の特別小口保険を活用し実現していましたが、地方税の所得割・事業税の完納などが求められました。マル小は無担保保険を活用。京都府が保証人になり、万一、中小業者が返済できず信用保証協会が代位弁済した場合、信用保険から補てんされない20%分を府が負担することにしたのです。納税要件もなく、府下で6カ月以上営業実績があることだけが利用条件でした。

無担保無保証人融資制度の流れ

 創設初年度の利用件数は4983件、25億9600万円。「当時はお金を借りるために銀行に入るだけでも勇気が必要だった時代。それが無担保無保証人で100万円借りられる。命を助けられたという業者がいっぱいいました」と若宮さんは言います。
 制度融資を金融機関に任せず「行政あっせん方式」を採用したことも大きな特徴でした。府の職員が制度を利用する業者の工場などを訪問し、経営調査・診断を行ったうえ、金融機関などに書類を提出する仕組みです。しかも民商や業界団体、商工会議所などの職員も登録すれば、府の嘱託を受けた経営相談員として必要な書類に記入する資格も与えられました。
 「中小業者の立場に立って融資を行うのが基本。府の職員も中小業者の実態を正確につかみ、的確な制度を構築できた。それは自治体職員の人材育成にもつながった」と、融資業務に携わった自治労連の山口祐二副委員長は指摘します。制度融資の充実と並行して蜷川府政は、地元金融機関を育てることにも力を入れました。当時、京都府の本金庫(現・指定金融機関)は勧業銀行でしたが、これを丹和銀行に移管。後の京都銀行として発展を遂げていきます。山口副委員長は「マル小融資を通じ、地域おこしやまちづくりを進める大きな力になった」と振り返ります。

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立命館大学名誉教授の二場邦彦さん

 蜷川民主府政を研究してきた二場邦彦・立命館大学名誉教授は「中小企業の立場から国の制度をどう運用できるか常に工夫してきたところに大きな特徴があった」と指摘し、こう続けました。「中小企業憲章にしても、自治体の振興条例にしても、中小企業の経済的、社会的役割を暮らしの中に取り入れようとするならば、蜷川府政が行ってきたことを今日的に学ぶことが求められているのではないか」



歴史に学び未来へ=民商・全商連の60年

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