山形県商工団体連合会(県連)の小竹輝弥会長(78・元山形県会議員)がこのほど、回顧録「野党を貫いて32年」を出版しました。民商・県連の会長を長く歴任し、山形県初の日本共産党県会議員としての奮闘ぶりや、今年、没後10年を迎え、ますます人気が高まっている直木賞作家・藤沢周平さんとの交流がつづられています。山形・鶴岡市に谷正幸商工新聞編集長が訪ねました。
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小竹輝弥さん。民商・県連の会長を長く歴任し、県会議員としても奮闘しました |
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回顧録「野党を貫いて32年」ご希望の方は鶴岡民商まで |
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小竹さんの出版記念祝賀会 |
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藤沢周平直筆の色紙 |
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一枚の色紙に込めた思い
「世の中変わる」胸に民商結成
‐小竹さんは県連会長や県会議員として有名ですが、本当は教師になりたかったのですね。
小竹 そうです。私の両親も教員で、教師になりたいと思っていました。敗戦を迎えた時の教師の惨めな姿を目の当たりにしていましたから、「教え子を再び戦場へ送らない」教師になろうと山形師範学校(現山形大学教育学部)に進みました。そこで反戦、平和の日本共産党を知り、すすんで入党しました。
その後、寮を中心に民主主義擁護学生同盟など学生運動をやりました。しかし1947年、マッカーサーによる「二・一スト中止命令」など第1次反動攻勢で、49年に山形師範学校を卒業はするのですが、アメリカ軍政部の弾圧で「教職拒否」にあってしまいました。
‐藤沢周平さんとはどんな出会いなのですか。
小竹 山形師範の同期生です。藤沢(本名・小菅留治)に最初に出会ったのは、北辰寮です。終戦直後で食べ物には苦労しました。隣村でしたから食料補給のために、たびたび一緒に家に帰りました。そのころの話題は、憲法と同時に施行された教育基本法で、「教育基本法とは何か」と白熱した討論をしていました。また藤沢は映画が好きで、ちまたではやっていた反戦映画を暇さえあれば見に行き、「戦争と平和」についてよく話し合いました。
その後、行商で県下の学校回りをしていたとき、湯田川中学で教員をしていた藤沢と再会しました。彼は「小竹が教職につくために自分にやれることがあったらやるから教えてくれ」と言うんです。うれしかったですね。
‐小竹さんは山形県では最初の鶴岡民商を立ち上げるんですね。
小竹 父は41年に中国で戦死、母は敗戦直後のインフレの中で父が残した預金も使い果たし、内職で家族を支えていました。弟は高校3年、妹は中学生、一番下の弟は小学生でした。
教壇に立つことを夢見ながら、私は生まれて初めて商売をやり、「育文堂」という店を開きました。文房具やお茶の卸です。ノート・クレヨン・絵の具などを自転車に載せて鶴岡市内などの小・中学校を回りました。心の中では「必ず世の中は変わるし、変えねばならない。そして教職に就くんだ。そのとき、教壇から子どもに対し、『正しいと思ったことは貫けよ。先生は貫いてきたぞ』と胸を張って言えるような教師になりたい。それまでの糧だ」との思いで商売に励みました。
店舗を出して間もなく、税務署が突然来たことがあります。当時は民商もなく、納税者の権利もまったく知りませんでしたが、「突然来られても駄目だ」「俺の頭の中が帳面だ」と言って追い返した覚えがあります。そのころ、乱暴な税務調査が横行していました。こんなとき、商工業者はどこに相談に行ったらいいのかと思ったものです。それで民商を立ち上げることになりました。
61年10月に全国商工団体連合会の事務所に寄りました。仙台商工業連合会(現宮城県連)からオルグも派遣してくれました。数度の学習会を経て、62年2月14日、出羽ホテルで30人が参加して鶴岡民主商工会を結成し、私は副会長兼事務局長に選出されました。65年には会員も100人を超え、専従事務局長も置き、03年まで2代目会長を務めました。鶴岡民商結成後、山形、酒田、米沢と続き、75年に山形県商工団体連合会を結成、会長に選出されました。
‐鶴岡市会議員、山形県会議員など議会活動でも奮闘されるんですね。
小竹 鶴岡では55年4月の第3回いっせい地方選挙で、初めて日本共産党の市会議員を誕生させ、59年には私が29歳で市議会議員に当選しました。
67年の第6回いっせい地方選挙で県議会に立候補。県議会で独自候補を立ててたたかうのは初めてでした。結果は、9520票、3位当選でした。この力になったのは350人の民商の仲間です。
‐衆議院選挙に立候補され、藤沢周平さんの応援演説があったのですね。
小竹 76年11月29日に鶴岡文化会館で開かれた私の個人演説会で、応援演説をやってくれました。藤沢が選挙の応援演説をするのは、生まれて初めてのこと。しかも後にも先にも一生に一度のことでした。そのときの演説は「野党を貫いて32年」でも紹介しています。ぜひ読んでいただきたいですね。
彼は苦労人でした。結核で教師を辞め、上京して業界紙の記者になります。最初の妻を病気で失い、乳飲み子を抱えて生きねばならなかった。逆境に耐えながら、庶民の哀歓を作品にしていったのです。また、歌人・斉藤茂吉など戦争協力への反省がない者への憤りはすごかった。だから政治を見つめる目も厳しく、温かいのです。
湯田川温泉に藤沢ゆかりの宿、九兵衛旅館が在りますが、ファンでにぎわっています。藤沢の中学校の教え子がやっている旅館です。藤沢はこの故郷・鶴岡をこよなく愛し、海坂藩として小説の舞台にしています。
ここに1枚の色紙があります。「返照閭巷ニ入ル 憂ヒ来ルモ 誰ト共ニ語ラン」とあります。これはお前のことを書いたんだというのです。「返照」とは夕日の輝き、「閭巷ニ入ル」とは村里に入ること、「憂ヒ」とは大衆の切実な要求という意味で、「お前が一生懸命取り上げて頑張っていることを聞いている、だからお前のやっていることを書いたもんだ」というのです。忘れられない思い出です。
ふじさわ・しゅうへい
1927年鶴岡市生まれ。山形師範学校卒業。中学教師の後、上京して業界紙記者。『暗殺の年輪』で直木賞、『白き瓶』で吉川栄治文学賞などを受賞。著書多数。市井に生きる庶民や下級武士の哀歓を描いた時代小説の名手。山田洋次監督の映画「武士の一分」でブームが再燃。
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