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  トップページ > 民商・全商連の60年 > 全国商工新聞 第2964号 2月28日付

民商・全商連の60年
 

第5回・3・13重税反対全国統一行動

 集団申告とともに時々の課題を掲げて取り組まれてきた3・13重税反対全国統一行動。1970年に初めて取り組まれ、今年で42回目を迎えます。その源流をさかのぼると、徴税当局による弾圧に立ち向かい、それを乗り越えてきた中小業者の知恵が浮かび上がってきます。

「知恵を出し合い集団申告が生まれた」と話す太田さん

 「あのころは申告といっても、確定申告書の名前も申告額も空欄。申告所得額を決めるのも税務署やったんですわ」。63年5月に大阪・大淀民主商工会(民商)に勤務、今年84歳になる元事務局長の太田芳男さんは当時を振り返ります。
 戦後、シャウプ勧告によって自主申告を基本とする申告納税制度を採用した日本の税制。しかし、税務署は確定申告時に中小業者を「呼び出し」、前年秋に行った概況調査(事前調査)をもとに推計・把握した所得金額を「申告指導」として、当たり前のように押し付けていました。
 民商の役員と事務局員は、呼び出された一人ひとりの業者に同行。税務署の推計課税に立ち向かいました。
 「あなたの申告所得額は100万円」。税務署員の決めつけに、民商は「それは多すぎる。70万円や」と応酬、その結果「80万円ぐらいで落ち着いたこともあった」と太田さん。「“民商に入れば税金が安くなる”と評判になり会員も増えた。ある意味では民商と税務署の力比べだったんですね」
 しかし63年半ばにそれが一変します。そのきっかけは前年の62年4月に成立した国税通則法。狙いは強権的な税務行政の推進でした。
 納税者の権利を守れ―。そのたたかいは急速に広がり、「わが国の税金闘争史上、もっともひろい層を結集し、中小業者団体はもちろん、労働組合、学会などをふくめた反対運動」(『民商・全商連の四〇年』)に発展。62年2月、東京都内で開かれた中小企業危機突破全国決起大会には33団体8000人が結集しました。同法は成立したものの大蔵省がもくろんだ記帳の義務化、質問検査権の強化など5項目は削除を余儀なくされたのです。

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確定申告書を集団で提出する都島民商の会員ら(71年3月)

 屈辱的な敗北を喫した徴税権力が乗り出したのが、反対運動の中心的担い手だった民商・全商連の計画的な「組織破壊」。それは嵐とも言えるものでした。
 63年5月、東京国税局は「民主商工会関係の動向を調査するように」との秘密通達を出します。大阪国税局管内でもいっせいに抜き打ちの事後調査を強行。64年12月には、当時旭都島民商の税対部長だった小貫冨雄氏を「暴力で概況調査を妨害した」とデッチあげ、警官50人が小貫宅を包囲。「公務執行妨害」で逮捕・起訴したのです。
 「民商に入ったら税務署にやられる」などのデマも流され、民商会員に「脱会届け」の書き方まで教えた税務署もあったといいます。
 「それまで慣行として行われていた申告、調査での立ち会いはすべて拒否。会員も一時激減しました」と都島民商の事務局長を務めた上野裕司さん(73)は振り返ります。
 同時に申告時に立ち会ってもらえない不安も中小業者に広がっていきました。
 「ここで中小業者の知恵が出てきたんですよ」と先の太田さん。小貫事件で概況調査(事前調査)の違法性が問われたこともあって、役員、事務局は学習を重ねました。押し付け課税は申告納税制度の本旨から外れている。事前調査には応じない。自分の税金は自分で決めて自主申告しよう―。到達した結論でした。
 「一人で行けば税務署のいいなり。みんなで申告しよう」。64年には大阪各地の民商が決起大会を開き、税務署に向けてデモ行進。確定申告書を握り締め集団申告を行ったのです。「税務署が恐くて電信柱のカゲに隠れたり、自分で手渡せずに事務局を通じて渡した業者もいました」と太田さん。集団申告は65年、66年と続き、全大阪統一集団申告行動として定着。それが全国に広がり、1970年の3・13重税反対全国統一行動へとつながっていきました。
 大淀民商の会長を務めた吉田勇さん(83)=当時理髪店=は言います。「最初税務署員を見るとビビッて逃げている方だったけれど、自主申告こそ正しいと確信を持つようになって、弾圧にも組織の拡大で反撃した。みんなと一緒に立ち向かうようになっていったんですよ」



歴史に学び未来へ=民商・全商連の60年

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